夫婦で生きる人生、子どものいる人生

臨月に入ったので生活ががらりと変わる前にここまで自分が感じて考えてきたことを残しておきたくて初めて記事を書きます。

6年半、夫婦2人暮らしを楽しんできたからこのままでもいいなと思っていた。

どういう心境の変化があっていまお腹に赤ちゃんがいるのか、書きます。

 

母性のないわたし

 

子どもの頃から「わたしには母性がない」と思っていた。

そりゃあ子どもなんだから当たり前でしょ、ということではなく小学生くらいになるとクラスの女の子のなかには将来の夢に「お母さん」や「保育士さん」を挙げる子がいたり、自分より小さい子を見かけると「かわいい~」と駆け寄り何とも自然に遊んであげる子がいたりしたのだけど、わたしにはそれがまったくと言っていいほどなかったからなのだ。

 

わたしには4歳年下の妹がいるけれど、親から「お姉ちゃんなんだから」と言われることもなかったので(親の教育方針によるもの)自分がお姉ちゃんであることを特段気負うことなく成長した、ように思う。

そして実際そんな幼少期を反映してか、妹から「お姉ちゃん」と呼ばれる機会はないまま大人になった。(今になって「お姉ちゃん」呼びに少し憧れがあるかもしれない)

 

結婚願望はあった。結婚式願望なのかもしれなかったけど。

大学時代から仲のいい友だちとは「もう●歳だし結婚しないとやばい」みたいな話をすることはなかった。3人とも、台湾旅行をしたときに占い師に言われた「そこそこお金持ちのしあわせなおばあちゃんになるよ」に「それって何より最高じゃん」と笑える価値観の持ち主だったので、日本社会にいまだに残る女性の人生への余計な口出しに言及せずに過ごせていたのかもしれない。(そうは言ってもまったくスルーできるわけではないんだよ)

 

わたしは25歳で結婚して、ずっと夫婦2人で生活してきた。

結婚してすぐの頃は「結婚して1年2年は2人で楽しむのもいいよね」「いつかお二人のベビーに会えるのを楽しみにしてるね」などと言われた。

さらに数年経つと「今はいいけどこの先もずっと2人だけだと飽きるよ」「若いうちに子どもを持ったほうがいいよ」「まだいいやと思っててもいざとほしいと思ったときに授かりにくくなってるかも」などと言われた。

いつかの母の日にオペラ座の怪人を観劇したときなんて幕間に子どもの話をされて、さすがにぎょっとしてしまった。母もそっち側の人間だったのか、みたいな。

最近では、祖母が逝去したこともあってわたしたち夫婦の子ども事情に触れる発言を聞く機会はほとんどなかったけど、それこそ祖母の葬儀のときには親戚から「あなたのところもそろそろじゃないの」と言われたり、結婚6年経っても夫婦2人であることから何かを推察したのか「焦らなくても大丈夫なのよ」と優しく肩を叩かれたりもした。

 

こうやって書いてみると、これが子どもを望んでやまない夫婦に向けられた発言であったのならなんて残酷なんだろうと思う。けど夫はともかくわたしは「子どもがほしい」と思ったことがなかったので「本当にこういうこと言われるんだー」とあまり自分事として受け止めていなかった。

 

両親は仲がいいほうだと思うし、幸せな子ども時代を過ごさせてもらったと思ってるし、現在の家族関係も悪くないし、夫のことは結婚前から変わらず好きだけど、子どもがほしい気持ちは沸いてこなかった。

「適齢期になると子どもがほしくなるもの」みたいなのも自分の身には起こらなかった。いっそ自然にそういう気持ちが沸き上がるのなら、自分で考えて決断する必要がなくて楽だなと考えていたこともあったかもしれない。

 

・いまの夫婦2人の生活に満足している

・仕事と生活で十分に充実している

・ここにプラスで育児をするのはかなり大変そうだ

・日本社会の行く末に希望が持てていない

・妊娠出産育児における女性への身体的・精神的・経済的負担が大きすぎる

・日本社会における女性への期待が一方的かつ過剰であると感じていてそれに応えることができない(応える気がない)

 

ではなぜいま妊娠しているのか

 

DINKS生活を続けていくなかで、上述の不安のうち夫婦で解消できる部分を解決できる目処が立ったことが1つ。具体的には「家事分担」について。

結婚当初からわたしの負担のほうが大きくて何度も喧嘩してきた。残業が少なかったので早く帰宅できるわたしが担う部分がどうしても大きくなるとはいえ、残業が少ないことはわたしの努力によるものでもあるのだ。よく言われる「名前のない家事」もほぼわたし。2人で暮らしている家なのに日用品のストックの場所を聞かれたり、ストックがないから買っておいてと言われるのも謎だった。なんでわたしが担当みたいになってるの?

夫は自分では自分のことをフラットな人間(そんな人いるか?)と思っているみたいだったし実際「家事は妻がやるものだ」みたいなことはもちろん言わないし、こちらが言えばやってくれる人だったけど、わたしにとってはそれは不十分だった。

わたし自身も完璧な人間ではないことは承知のうえで、夫の心の奥底どこかには「家のことは基本女性のほうが得意でしょ」みたいな意識があるのを感じていた。別に得意なんじゃない、一緒に暮らしているもう片方がやらないから自分がやるしかなくなるだけなのに。女性は最初から家事ができるんじゃない。新入社員が最初から仕事ができるわけではないように、女性も何度も繰り返すうちに効率の良い方法を見つけたり手際が良くなったりするだけだ。

 

「気づいたほうがやればいい」理論もよく聞かれるしうちもそれを言われたけど、これほど納得いかない理論もない。職場の若手社員について「気が利かない」「周囲の状況を見れていない」みたいなことを言うけど、家になるとあなたもそうじゃんとなる。

結局これを言う人間は、基本的に責任は自分以外の他者にあると考えているだけだ。

2人が2人とも快適に暮らせるように、家のなかの状況について気づこうとすることは必要なんじゃないのと思うわけです。

 

こういうことについて話し合いを繰り返し、2人とも同じレベルで家のことができるようになった、と思う。ゴミ出し一つとってもこれだけ変わった。

これまで:(わたしがまとめた)ゴミ袋を集積場所まで運搬する

いま:ゴミ出しの曜日を確認して、家中のゴミをまとめて集積場所に持っていく、ゴミ箱に新しいゴミ袋をセットする

 

いまの生活に育児がプラスされることを考えると、家事は完全に夫ができる(やる)ようにならないと回らなくなってしまう。

 

もう1つは夫が子どもを望んでいたことが正直大きい。

夫はずっと子どもがほしい気持ちがあったけどわたしが決断できないでいるのを知っていて「2人の気持ちが揃ったら」と言ってくれていた。妊娠出産は女性にしか負担できないことなので当たり前のことではあるけど、急かすことももちろんなく「2人の暮らしでも楽しいし」と言ってくれていた。2人で生活していくなかで、2人とも生活しやすいようにわたしがより楽しく穏やかに生きられるようにと心を砕いてくれる様子をみて、夫への信頼が増していった。

もしも授からなかったら高度な治療などはせずにこのまま夫婦で生きよう、と2人で決めた。

 

そして妊婦になる

 

5月に産婦人科を受診して、妊娠がわかった。

内診が苦手なので待合室では緊張しすぎて身体の震えがとまらなかった。

何がなんだかわからないエコーで小さな輪っかが見えて、胎嚢だと教えてもらった。

初めて聞く単語、これがどうなってどうなるの?

でも自分でも不思議と「妊娠してたらいいな」と少しばかり祈る気持ちでいたので、「本当に妊娠してるんだ…」と感動したのを覚えている。

 

このときはまだ身体にこれといった変化は起きていなくて、ここから先の未来で妊娠期間の大変さを身をもって感じることになるのだった。